今回のテーマは「運指」,つまり,「指遣い」である.

以下の図を見るとわかるように,ピアノの楽譜では音符のそばに数字が振ってある.これらの数字は「どの指を使ってその音を弾くべきか」を示しており,1,2,3,4,5がそれぞれ親指,人差し指,中指,薬指,小指に対応している.ピアノを習っている人ではこの対応関係はあたりまえの知識になっていて,ふだんの生活の中でも中指のことをうっかり「3の指」といってしまうぐらいである.話は脱線するが,ヴァイオリンの楽譜での数字と指の対応関係はピアノの楽譜とは違う.ヴァイオリンでは左手の指で弦を押さえるときに親指を使わず,人差し指から小指までの4本だけを使うので,この順で1から4の番号がつけられている.つまり,ヴァイオリン奏者によって「1の指」は親指ではなく人差し指なのである.筆者は,ヴァイオリンを習い始めたころ,数字と指の対応付けがピアノと違うことに大いに混乱した(しばらくすると,ピアノを弾いているかヴァイオリンを弾いているかで頭の切り替わりができるようになるようで(文脈によるマッピングの切り替え!),最近では混乱することはあまりない).

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話をもとにもどすと,ピアノの初心者は,楽譜に書かれている指番号を「絶対的な指示」だと思って弾いていることが多い.実際,初心者が弾く練習曲では,楽譜に記されている運指指示どおりに弾いてこそ練習の意味があるので,楽譜の指示どおりの指遣いで弾くことには一定の合理性がある.しかし,一般には,楽譜の指示のとおりに弾く必要はない.というのも,楽譜に記された指番号は,楽譜の編集者が独自の考えで「この指遣いがお勧めですよ」と思って付記したものにすぎないからである.実際,楽譜の版が違えば指番号が違うことはしばしばである.上の図は,リスト作曲の演奏会用練習曲の一部について異なる版の楽譜から切り出したものである.この二つは同じ箇所の楽譜であるが,一方は事細かに指番号が記されているのに対し,他方は指番号がまったく記載されていないことがわかるだろう(よく見ると,スラーのかけ方も違っている!).このように,楽譜上の指番号は決して絶対的なものではなくて,「推薦」「示唆」程度のものである.最終的には,演奏者が自分にとって弾きやすい指遣いを決めればよい.

しかし,初心者・初級者にとって(中級者でも),この「自分にとって弾きやすい指遣いを選べ」というのが難題である.というのも,ある指遣いが弾きにくいと感じたときに,それが「その指遣いが合理的でないためなのか」それとも,「自分の技能が低くて指が自由に使えないだけなのか」の判断がつかないからである.

わかりやすい例を一つ挙げてみよう.右手を使って音高が下降する音型を弾く(つまり,叩く鍵盤の位置が右から左に向かって移動する)場合をイメージしてほしい.このとき,右手の指の並んでいる位置関係を考えれば,右から左に向かって弾くときは小指から親指の順番で(指番号でいえば,5から1の順番で)弾くのが自然である.しかし,実際の演奏では必ずしもそうとは限らず,場合によっては,薬指と小指を交互に使うような場面も出てくる.ただ,初心者にとって,「薬指と小指を逆順で使う(つまり,薬指である鍵盤を弾いた次に小指でその左側にある鍵盤を弾く)っていうのはどういうこと?」という感じである.このような状況で,「薬指と小指を交差させるのは不合理である」と考えてほかの運指方法だけを使っていたら,いつまでたっても薬指と小指を交差させる技能を身に着けることができない.つまり,初心者に「指遣いを自分で決めよ」というのは酷な要求なのである.

そういう意味で,楽譜に記入された運指指示というのは初級者にとってはありがたいアドバイスである.いまの時代,クラシック曲のピアノ楽譜はほぼ何でもIMSLPでダウンロードできるので,もし弾きにくい箇所に遭遇したら,異なる版の楽譜を眺めてその場所にどのような運指指示があるか調べてみるのが良いかもしれない.一方で,楽譜に記された指遣いが自分にとってあわないときは,指や手に無理な力がかかって怪我の原因になりうるので注意が必要である.筆者の場合は,とりあえず楽譜上の指示に従ってしばらく(私の場合週に1日しか弾かないのでだいたい1か月ぐらい)弾いてみて,指がその動きに慣れてくる(楽に弾けるようになってくる)ときはそれをそのまま採用し,いつまでたっても楽にならないときは別の運指法を探すといった二段階戦略で対応している.実際,練習を始めたときは「こんな指遣いで弾けるようになるのか!」と思う箇所でも,しばらく我慢して練習していると指が動くようになってくる.

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最近体験した例を一つあげておこう.図はリスト作曲の「愛の夢」3番のある箇所である.赤で囲った部分の後半部分,左手の親指(1)でド#を弾いて,次に人差し指(2)でミ,次にまた親指(1)でソ#を弾けという指示が書いてある.親指はもともと他の指より低い位置にあるので,白鍵より高い位置にある黒鍵を弾くのはできるだけ避けたいのに,親指で黒鍵(ド#)を弾き,次に人差し指で白鍵(ミ),次にまた親指で黒鍵(ソ#)を弾けという指示,「本当にこれが最適な指遣いなのか」と最初は思っていたが,慣れてくるとそれなりに指が回るようになってくる.この「指が回るようになる」という感覚,「指が複雑な動きを新たに獲得した」というよりは,「手首や手,指が柔らかくなってより柔軟に動けるようになった」という感覚である.(いままで動いていなかった関節が動くようになったせいかもしれないし,手や指,腕の運動の協調関係が改善されたかもしれないが,真実はわからない).ちなみに,この赤枠の部分,この楽譜には「132121」という指番号がふってあるが,個人的には「121321」もありではないかと思っている(これならば,親指でド#を叩かなくて済む.でも,どちらが最適な指遣いなのかはわからない).いずれにしても,しばらく弾いているあいだにいままでできなかった指回しができて「指遣いのレパートリーが増える」のはちょっとした喜びである.

ところで,運指のレパートリーが増えることはその曲のその部分が弾けるようになるという意味だけでなく,より大きな意味でピアノ演奏能力にも影響を及ぼすと考えられる.その一つが初見演奏能力である.初見演奏というのは,楽譜を与えられたその場ですぐにその曲を演奏する能力で,プロの演奏家には不可欠な能力である.根拠のない私見であるが,初見能力を支える重要な要素は,楽譜に書かれた情報を指の運動パタンに変換する能力,つまり,楽譜を見た瞬間にどうやって指を動かすかが半自動的に構成できるような能力である.楽譜を読み取るときには,一音一音を独立して捉えるのではなく一定のまとまりごとに捉える「チャンク化」の機能が重要であるが,このチャンクには,楽譜にある音符をまとめて捉える視覚的なチャンクと,一連の指の動きをまとまりで捉える運動的なチャンクがあるはずで,初見能力が高い人はおそらくこれらのチャンクを豊富にもっていて,視覚的なチャンクと運動的なチャンクとの連合が発達している(何ともあいまいな表現だが)のであろうと推測している.言い換えれば,初見能力が高い人は指遣いを土台とした楽曲の分節化が瞬時に行なえるのであろう.さらに,チャンクとチャンクをつなぐための指遣いのレパートリーが豊富なことも重要であろう.たとえ部分ごとのチャンク化ができても,それらをつないで弾き続ける能力が無ければ,そこで演奏を止めざるを得なくなってしまうからである.

これは一つの例であるが,このほかにも運指のレパートリーが増えることが演奏能力に影響を及ぼすことはあると思われる.ピアノ演奏技能は種々の技能の積み重ねで実現されているので,総合的な演奏能力の上達においては,ある部分的技能の向上が別の部分的な技能の向上に寄与するといった形で,複合的な(らせん階段状とでもいくべきか)進化が生じていると考えられる.これはピアノ演奏に限ったことではないが,特定の能力の発達だけを切り出しても技能全体のことはよくわからないのである.こういった複合性が身体技能の科学的な検討を難しくしている一つの原因であると思う.