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*ピアノの個体差

今回のテーマはピアノの個体差である.ここで議論したいのは,「楽器としてのピアノ」の個体差であり,「演奏者であるピアニスト」の個人差ではない.

ピアニストが弦楽器奏者や吹奏楽奏者と大きく違う点は,演奏会において「自分の楽器」を使えないことである.そのために,ピアニストには「演奏会場にある楽器にあわせて演奏を調整する能力」が要求される.もちろん,どのような楽器奏者でも,ホールの特性や客の入りにあわせて演奏を調整することは必要だが,演奏に使う楽器そのものまで違うのはピアノぐらいであろう.

この「楽器にあわせて演奏を調整する能力」というのは,アマチュアピアニストではなかなか身に着けることが難しい.おそらく,この能力の有無は音楽大学で専門教育を受けたピアニストとアマチュアピアニストを線引きする一つの物差しになるのではないだろうか.というのも,ほとんどのアマチュアピアニストは,ふだんの練習に使う自分の家にピアノと,レッスンを受ける先生の家にあるピアノでしか弾く機会がないからである.それ以外の触れる機会がある楽器は,年に1回の発表会の会場においてあるピアノぐらいである.これに対して,音楽大学の学生は,自分や先生の家の楽器だけでなく大学の練習室においてあるいく台もの楽器で日常的に練習しており,さらに,定期試験やコンクール,コンサートでの演奏や他の楽器奏者の伴奏などにおいて,それぞれ別の楽器で「本番」を弾く機会が格段に多い.定期試験やコンクールでは「会場のピアノ」で上手に演奏しなくてはならないので,音大生にとって楽器特性に適応して演奏する能力を獲得することはまさに死活問題である.逆の見方をすれば,音大在学中にこのような適応能力を獲得するためにトレーニングすることは,プロ演奏家となったのち,各地のホールで戸惑うことなく演奏できるようになるために必要なプロセスであるといえる.

このように考えれば,専門教育を受けたピアニストとアマチュアピアニストとのあいだに格段の差があることは,当然といえば当然である.アマチュアの中には,「先生の家にあるピアノだとうまく弾けない」と感じる人が多いと思うが,これは「先生の前だと緊張するため」だけでなく,「先生の家にあるピアノの特性にあわせて演奏を調整する能力がないため」でもあろう.

残念ながら,筆者にはこの「楽器にあわせて演奏を調整する能力」がない.これは自宅の楽器で週に1回しか弾かないといういまの練習環境を考えれば当然なのだが,とはいえ,ピアニストの人たちと雑談をするたびに,この能力の欠如が自分の世界を狭めていることを認識させられるので,何とも悲しいところである.

その一つの例が調律指示である.ピアノの音響特性を維持するには,少なくとも年に1回は調律師に依頼して,弦の張りやハンマやダンパなどの位置を調整してもらう必要がある(もちろん,演奏家はもっと高頻度で調律を依頼している).ピアノの調律を依頼するとき,専門家ピアニストは「この部分はこういうように調律してください」という指示を出すのが普通らしいのであるが,筆者にはそのような指示を出すことができず,すべて調律師に任せるしかない.このような指示ができないのは,筆者の頭の中に,「調律師にどのように依頼すればどのように弾きやすさや音が変わるのか」という内部モデルがないからである.

先日,あるピアニストに「調律師にそのような指示が出せるようになったのはいつごろからか」という質問をしたら,「いろいろなピアノで弾いているうちに,このピアノはこの部分が弾きやすい・弾きにくい,鍵盤が重い・軽い,反応がよいといった経験が蓄積されてくるので,そのうちに『このピアノはこの部分がこういう感じなのだけれど,このように調整できるか』といった指示ができるようになった」という答えが返ってきた.まさに,特性の違うさまざまなピアノで演奏したという経験が,このような指示を出せる能力を生み出す根本にあるのである.

ところで,特性の違う様々なピアノで演奏する経験は,ピアニストが自分の演奏の調整能力を涵養する手段になっている.特性の違う楽器を使って同じ音を生み出すには,鍵盤を叩く自分の打鍵動作を調整するしかないから,どんなピアノでも同じように弾けるためには,自分自身の調整能力を磨くしかないからである.そして,この調整能力を得るには,「打鍵動作をどのように変えれば音がどのように変わるか」という内部モデルが頭の中にもっていないといけない.

そして,このような内部モデルを頭の中に構築するには,そもそも,打鍵動作を微妙にかつ再現良く調整する能力や,打鍵変化による音の変化を感じ取る能力を持っていることが前提となる.打鍵動作を能動的に調整でき,その結果を耳で感じ取ることができて,初めて「打鍵動作の調整⇒音の変化」に関する内部モデルを獲得することができるからである.このような内部モデルを使うことによって,自分の欲しい音が出るように打鍵動作を調整することが可能になる.
そして,このような内部モデルを頭の中に構築するには,そもそも,打鍵動作を微妙にかつ再現良く調整する能力や,打鍵変化による音の変化を感じ取る能力を持っていることが前提となる(このあたりは[[Adams>http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00222895.1971.10734898]]の理論と関係している).打鍵動作を能動的に調整でき,その結果を耳で感じ取ることができて,初めて「打鍵動作の調整⇒音の変化」に関する内部モデルを獲得することができるからである.このような内部モデルを使うことによって,自分の欲しい音が出るように打鍵動作を調整することが可能になる.

ここまで考えてくると,ふだんの練習で使えるピアノが1台しかなくても,打鍵動作を細かく調整し,それによる音の変化を聴きとる能力を高めておけば,異なる特性をもったピアノに触れることになったときに,それに素早く適応することができるということにならないだろうか.もしこの推測が正しければ,打鍵動作を丁寧に調整し,音の変化を注意深く聴きとる練習こそが重要だということになる.[[シャンドールの本>https://www.amazon.co.jp/dp/4393937635]]に「機械的に練習しても意味がない.集中して練習しなければならない」と繰り返し書かれているのは,そういうことなのであろう.

「ピアノの個体差」という当初のお題目からはだいぶんそれてしまったが,結局は,「ピアノの個体差に対応できるようになるには,一音一音丁寧に練習することが重要である」という結論に落ち着きそうである.